ヤマト屋の歴史 「お客様のお声で進化し続ける」


今回は少し、ヤマト屋の歴史をお話させて頂きます。

創業(明治25年)から、昭和40年代に大ヒットとなった「ハイバッグ」誕生

 

 

お客様のお悩みを解決するバッグを創り続ける原点がここにあります。

 

 

初代 正田竹次郎は浅草仲見世に和装小物の店を始めましたが、その妻の`ひで´はとてもお洒落で、特に髪型の美しさを大切にし、日本髪の丸髷の独特の「髷型」(黒い和紙で芯綿を大きな栗のような形に包み込んだもので日本髪の形を決定づける芯)『おもだか型』を考案・発売しました。

 

 

ご婦人方に大評判で仲見世通りの反対側まで順番待ちのお客様があふれたほどでした。

 

 

髷型は全て自分の手で仕上げなければ店に出さないと言うこだわりでした。

 

 

その`ひで´は幼い孫の喜代松(三代目社長)を可愛がって内風呂に一緒に浸りながら、繰り返し教えてくれました「自分の方に温かいお湯をかき寄せると、周りから冷たい水が寄ってくるんだよ。ひと様の喜ぶことをするんだよ」と。

 

 

その娘の乙女(二代目社長)は健次を婿養子に迎えましたが早世され、年寄りと子供を抱えて大空襲で壊滅した仲見世を女手一つで再興する過程で、詐欺・窃盗・裏切りなどに苦しみながら全ての不動産も失って、税務署の執行官に家財全て差し押さえられるまで大苦戦をしました。

 

 

この間十指を数える商売替えを経て、創作ふくろもを発売し大ヒット、浅草を代表する雷おこし常磐堂に次いで浅草税務署所得二番になる繁盛店に仕上げました。

 

 

 

乙女は娘時代から最高のおしやれに包まれて、浅草小町と云われるほど美人でしたが、店では暇さえあれば店頭の飾り付けを直しては、通りの反対側に立って「お客様から見た自分の店」をお客様目線で見直し動き通しの毎日でした。滞留在庫ゼロを誇る店でした。

 

 

 

自分で考案した『ハイバツグ』を店で売り、お客様の声を伺い、自分で使っては工夫と改良を繰り返しました。(世界初のポケッタブルバツグ=究極のエコバッグで通算七百万個超) は風呂敷からバッグへの生活革命を生み、黄綬褒章・勲五等もいただくもとになりました。

 

 

そこには「お客様のお声で進化し続ける」を合い言葉とするヤマト屋の原点があります。

 

 

「商い」を通して「私達とお客様は、今の時を共に生きている」

 

「お客様の喜び(Ravi)は、私達の喜び(Ravi)」が、『ラビラビ』ブランドの由縁です。

 

「お客様のお困りごとは、私達の困りごと」と受け止めています。

 

 

「先達の背中」を思い起こしつつ、ヤマト屋は生き続けようとしています。